関東大震災から100年 今振り返る、東洋一の高さを誇った原町無線塔の物語

関東大震災を世界に伝え
世界の支援を得られた。

福島県南相馬市に住む40代後半以上の人は、その存在を実感として持っている原町無線塔。
大正10年から運用され昭和3年に大改修されるも、長波から短波へと時代の波に飲み込まれたった10年で運用停止。その50年後には解体されてしまった日本で一番高かった建物。
その姿を実際に見た人は、その存在と容貌を忘れることはないが、知らない人には是非知っておいてもらいたい数奇な運命をたどった塔の物語。
それは通信(通心)というものが如何に大切かを現代に伝えてくれます。

そうそう地域共生社会推進チーム MMS南相馬を無線通信の聖地にする会主催
特別講演「世界をつないだ白亜の塔 原町無線塔」
南相馬市博物館  二上文彦氏
2323/12/24クリスマス・イブに開催!
お申し込みは→ボタンを押してご予約ください。
リアルタイムのみZoom配信もあります。

電波を発して稼働したのはたった10年、その後はシンボルとしてただ立ち続けた50年

概略
・1921年、対アメリカ通信網確立のため「磐城国際無線電信局原町送信所」が開所。主塔である高さ約201mの『原町無線塔』が建設された。鉄筋コンクリート製で当時としては最新鋭の東洋一の高さを誇る巨塔であった。
・1923年9月1日午後11時、関東大震災の第一報「本日正午横浜において大地震についで大火災起こり、全市ほとんど猛火の中にあり、死傷算なく(以下省略)」を、無線電信により、サンフランシスコに打電。このニュース電信により大地震の発生を世界中が知ることになった。当時の局長米村嘉一郎が英文の文章を作成し、日本で唯一海外との情報発信基地となり、局員が不眠不休で日本の被害状況を伝えた。当時の通信設備としては最先端の施設で全世界から注目されていた。
・1931年、無線電信局としての役割を終え、原町送信所は廃止された。原町送信所廃止後も原町無線塔は残され、原町市と、原町市民の心のシンボルとして天高く君臨し続けた。その巨塔の勇姿は旅の目印になったばかりではなく、海上からもよく見え、漁の目印としては無くてはならない存在になっていた。福島第一原子力発電所建設前の気象データ取得調査のために『原町無線塔』が使用されている。
・1982年3月、原町無線塔は、コンクリート外壁の風化と老朽化に耐えられず、撤去された。解体には福島県庁と原町市役所が着工し、約5億円の巨費が投じられた。
(ウィキペディアより)

※原町無線塔はそれだけで通信ができたわけではありません。当時は電波混信を避けるため送受信装置を120(222km)離す必要があると考えられており、原町送信所と富岡受信所の2つを電話で繋いで運営していました。
2つを合わせた正式名称は「磐城国際無線電信局」です。

多くの日本人はもう知らないが、当時世界が注目した無線塔は数奇な運命をたどる

建設

大正初期、日本の電波技術史の創成期が始まります。しかし、当時の日本は全く豊かな国ではありませんでした。
活発になった欧米列強との外交戦略のなかで、不十分な対外通信施設しかなかった日本は、他国との情報戦に遅れをとるまいと、新たな通信施設を必要としていました。
1920年代は〇〇建築とラジオの時代の幕開けの時代。
原町無線塔は、そんな中で建てられた国際無線局の送信施設です。1921年(大正10年)10月竣工、翌年7月に開局しました。
太平洋側の相双地域はアメリカに近く、立地の候補地は数多くありましたが南相馬市原町といわき市四ツ倉が最終候補地になり、水の豊富さと河岸段丘で出来た固くて広い土地の原町に決定しました。
当時は日本軍が管轄する舟橋無線塔がありましたが、政府が自由に使えるものとして熱望された無線施設でした。

そのため、国家が総力をあげて取り組んだ事業の中で生まれたアンテナの主塔で、依佐美送信所ができるまで東洋一の高さを誇りました。
100年前の開局式典には逓信大臣ら政府高官、軍幹部、福島県知事ら県幹部、新聞記者らをあわせて400 名ほどの来賓が原町を訪れ、当時世界有数で最先端の国際無線局の開局を祝いました。
祝宴は欧米流のパーティー形式で、初めて見るチョコレートやバナナに戸惑った地元住民もいたそうです。
街中では記念行事が行われました。原ノ町駅前には記念祝賀の大アーチ、家々には国旗や花灯篭などが飾られ、野馬追の騎馬武者行列や、打ち上げ花火、飛行機によるアトラクション飛行などが行われ、地元の人々も、無線塔の圧倒的存在感と、無線通信という新時代の到来を熱烈に歓迎しました。

当初は鉄塔の予定だったが、技術者への命令は”とにかく安くあげろ”。しかし第一次世界大戦の影響で鉄の値段が高騰したため、鉄筋コンクリート製に変更。
出現したばかりの新技術であるコンクリート製の塔になった。アンテナを張る副柱は鉄製ではなく木製でコンクリート塔と16本の木製副柱からなるユニークな施設になった。
工法は高さ約1.37メートル(4フィート6インチ)ずつ井戸状にコンクリートを打設するというもので、1920年(大正9年)9月26日までの間、これを147回繰り返し作られました。
材料は近くを流れる新田川から砂と石を採取しました。
尚、建設と改修の工事では数人の犠牲者も出しています。
完成は日本中が知ることになり、国定教科書にも載るほどで、「原町から来た」と言えば「あの無線塔があるところか?」とどこに行っても言われたそうです。

仕様・性能
大正10年(1921)7月 磐城無線電信局はアメリカとの送信局として開局式を迎えました。
無線塔を中心に半径400mで60mの高さの副柱が18本が立ち、それをアンテナ線でつなぐ巨大な傘型アンテナの送信施設です。
送信機は花火式と言われ、電気をショートさせることによって火花を生じさせ、火花電波を利用するという原理のものでした。
それを400kW電弧式送信機で送信しました。これは技術の最先端であり世界各国が短波や真空管送信機が実用化されるまでの10年間使用された。
試作機の30kWのものから400kWの実装には巨大であるがゆえに文献がなく、外国の写真だけを頼りに技術者はオリジナルの設計を書き上げた。
仕組みは電弧室とよばれる空間の銅と炭素棒の電極の間に放電するもので、その電弧室を外部から電磁石が取り囲み、磁場を発生させた。
冷却システムもあり、高圧絶縁油を電動ポンプで建物外の冷却池に送り、池の水も井戸水を循環させるという二段冷却装置となっていた。
とにかく巨大で炭素棒が火花の熱で損傷するのを交換する作業はSLを手入れするような感じであった。
電弧発生室の周りの電磁石は強力な磁界を発生し、スパナなどを近くに忘れるとスィッチを入れた瞬間に吹っ飛んでしまったり、金属のボタンがついた服を着ていた人は引っ張らるほどであった。
長波
出力:450kW
設計者
設備


関東大震災---開局から2年
開局から2年後、9/1に関東大震災発生。
関東では地上の通信網である有線が地震発生から数分で切断され、救援要請ができなくなる事態となった。
この時、その情報は何人かの知力・胆力・気力を持った人たちが繋ぐことで最後に原町無線塔からアメリカに向けて打電され、世界が支援・救援してくれることに繋がった。(※後述)

第一次世界大戦においてともに戦った日本に対するアメリカの政府、民間双方の支援はその規模・内容ともに最大のものだった。有名なスローガン「Minutes make lives(数分が生死を分ける)」はこのときのもの。全米で被災者に対する募金活動が行われたほか、当時アメリカの植民地だったフィリピンのアメリカ陸軍基地からもさまざまな物資が送られた。さらにアフリカ系アメリカ人指導者のマーカス・ガーベイも、大正天皇あてに電報を送るかたわら募金活動を行った。アメリカ海軍は、アジア艦隊から多数の艦船を物資満載で派遣し、避難民や物資の輸送にあたらせている。
改修---開局から5年後
1926年~1928年(昭和3年)にかけ、送信電波をパワーアップさせるための大改修がなされました。
これまでは18本の木製の副柱だったのを、主塔と同じ高さの200メートルの鉄製副柱を5本建て、上面を傘型からフラットとした、直径800mだったものから直径1キロメートルへサイズアップしたアンテナを形成しました。
(※富岡受信所の方向にはアンテナを張らなかったので形は変わりました)
副柱が高くなったことから、それを引っ張って支える巨大なコンクリートのアンカーが設置されました。


アンテナ・設備撤去
海中放棄
住民の生活の中の塔
廃局---開局から10年
通信技術は長波から短波へ変わっていき、巨大なアンテナは必要がなくなっていきました。
そして遂に1931年(昭和8年)に停波。わずか10年あまりで、その役割を終えた。

大正期末に真空管が改良され、短波通信が可能になった。短波とは電離層反射を応用した電波伝搬ですから遠距離通信が可能になり、短波は逆L 型アンテナを用いるので、長波の為の無線塔は無用の長物になっていく。大正14 年10 月20 日日本無線電信株式会社創立、磐城無線電信局は政府現物出資として同会社へ譲渡され、富岡局は短波通信ができるよう送信アンテナを新たに設置し運用を期したが、残念ながら昭和2 年8 月に磐城無線電信局の廃止が決定、それでも短波無線局として活用しようと設備を投入したのですが、昭和7 年には完全廃局が決まり、機材は全て埼玉県福岡局へ移されて敷地と無線塔だけが取残された。
敵機の目標物---開局から24年
太平洋戦争では原町は陸軍の飛行場があったので攻撃目標となり、東北では最初に原町が空襲された。
無線塔はその巨大な姿から、アメリカ軍飛行機からの目印とされた。
爆撃機は空母に帰艦する際に砲弾を持たないようにして着艦の危険を回避するために、空襲の帰り際には何の機能もない塔に向かって機銃掃射やロケット砲で攻撃を行い、30cmほどの穴が開くなどその痕が残った。
パイロットの気持ちとしては、海岸に近い大地から1本201mの塔が突っ立っていたので目立ったであろうし、撃ちたくて仕方なかったのかもしれない。

町のシンボル---竣工から60年間
取り残された無線塔は50年間、電波を出すことなくただ立っているだけとなります。
原町市民は、町中が盛り上がった華々しい開局パーティから、時代のながれに飲み込まれていく無線塔の姿を見続けることになります。
しかし、無線塔はその巨大さゆえに多くの人の道しるべや海上からの目印として利用され続けます。
原町市民にとっては象徴的存在として大いに愛されてきたのです。

国道6号からの原町無線塔
解体---開局から60年後
1973年からコンクリートの劣化による、破片の落下事故が起こり始めます。
戦前の材料であり、品質も十分でなかったことが考えられます。
町は保存か解体かの議論になりますが、結局5億円の工費をかけて解体することに決まります。
1981年から解体を始め、翌年にはきれいな更地となりました。
解体は塔の外周に足場を作り、上から内側にハンマーでたたき壊していく方法がとられました。
日に日に低くなっていく無線塔でしたが、地上60mから下はかなり堅牢であり現代から考えれば、もしそれを残していたら文化遺産になりえたのではないかと残念に思われます。
富岡受信所の建屋は東日本大震災で被災しましたが、地震に耐えて残っていました。
しかし、居住制限区域となり2016年1月に解体されました。
磐城国際無線電信局はこれで完全に姿を消してしまいました。
更地になった土地には、支柱を支えたアンカーが4ヶ所の内3箇所残っています。

憶・原町無線塔ーーー開局から61年
当時解体後の市民感情としてあまりにも無線塔ロスが大きく、何らかの対策が必要になってきました。
その町の人々にとって日々切り取られていく様子を見るに忍びなかった気持ちが想像できます。
そこで1982年ライオンズクラブの方々が塔の立っていた場所から〇〇m離れた国道沿いに1/10のミニチュアの塔を建設されました。
無線塔が無くなって僅か7か月後にはこの塔が完成されました。
是非、その土台部分に書かれた碑を読みに来ていただければと思います。

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関東大震災時の個人の判断、人を助けたいという気持ちが無線で世界を駆け巡った。
まるでこの時の為に建ったかのような無線塔。開局から1年後の事です。

神奈川縣警察本部長/森岡二郎
後に、戦時下におけるプロ野球の存続に尽力し、野球殿堂入りした人物が、当時、神奈川縣警察本部長の森岡二郎である。
9月1日(現在の防災の日に繋がる)関東大震災発生。陸上の通信機関は震災勃発後わずか2、3分で、すべて破壊されてしまい、東京・横浜と各地との通信は途絶した。
惨状の第1報は横浜在泊中の「ろんどん丸」、東洋汽船の「これあ丸」から大阪に送られた。
「これあ丸」の無線に第1信を打たせたのは神奈川県の森岡警察部長だった。彼は家の八割が燃えているという状況の中で、火をくぐり抜けて埠頭にたどりつき、そこにあった小さな蒸気船を目がけて制服のまま海中に飛び込み、その蒸気船で沖に停泊中の「これあ丸」に行き「地震のため横浜の惨害その極みに達す、最大の救助を求む」と内務大臣、警視総監宛てに至急電を打った。だがこれを受け取った東京は電報を送る方法がなかった。

「これあ丸」は、なお電信を打ち続けた。「これあ丸」だけではない。「ろんどん丸」もまた、電信を打ち続けていた。この両船のみでなく、おそらく停泊中の船舶で無線設備を有する船という船はすべて必死に打電したのだろうが、いわゆる“花火式”で性能は悪い。「ろんどん丸」に装備されていた無線も3キロワットの瞬間花火式送信機であった。
東京からの返事がないことを東京も被災していることを想像した森岡は、午後9時に大阪に向かって打電。
横浜の惨状が大阪に届いたのは翌2日未明のことであった。それは、「これあ丸」、「ろんどん丸」からのものであり、それぞれ2日午前3時と午前4時である。震災発生から15、16時間も経過していたが、これが第1報だったのである。
(UNABARA 商船三井グループの Communication Magazine  No.553 関東大震災の記事より)

大阪に届いた盛岡の電報によって、神戸と大阪からは救難品を満載した軍艦と船が急派されることになりました。
また船が救援本部になったという事は、多くの船乗りたちを刺激したことが想像できます。
復興に当たっては陸路が寸断されているので多くの船が貨物や人の輸送に携わることになりました。
コレア丸通信士/川村豊作
非常通信網という制度がなかった時代、地震発生を最初に災害地外に伝えたのは横浜港に停泊中の東洋汽船「コレア丸」や大阪商船「ろんどん丸」などの船舶無線であった。
「横浜で震災に引き続き津波と火災が発生し、死者多数、交通通信は途絶し、飲料水も食料もなし」の通信文は、当時湾内十数隻の船舶無線通信の発信に加え一般市民の頼信も加わったため、電波は著しく混信していて届かなかった。
そこで「これや丸」の通信士川村豊作は逓信大臣の許可を得ずに全ての通信をストップする符号を打った。これは通信法規上の違反行為であったが、各局が発信をストップしてくれたので「これや丸」は関西地方に関東大震災を公式に報じるという重要な役割を果たしたのである。

地震が起こって四昼夜電鍵を叩き続けた川村通信士の手記
「本牧沖に投錨して間もなく伝馬船やボート等を駆って被災者が殺到し、これや丸の船内は忽ち三千人余りの避難民でごったがえした。神奈川県知事、警察部長など首脳部が乗り込んできて急拠「救済本部」をこれや丸に設置し一切の救援指令を発することとなった。関東一帯の陸線はほとんど破壊され、関西方面からの救援を求める途は無線によるより外にはない(短波やラジオは勿論テレビのない時代である)。食糧も水もなくこのままでは餓死に追い込むことになる。なんとしても第一報の救援指令を一刻も早く関西に報じなければならない。しかも無情にも空中は、あたかも蜂の巣をかきまわしたような電波の発射で、大混乱となっていた。神に祈る気持ちで潮岬無線局を連呼したが応答らしいものをキャッチすることができない。幾度か繰り返し連呼したが一向に応答がない。発電機は数時間廻り放しで過熱する恐れがある。時に午後七時過ぎであったろう。当時はこれや丸の送受信機は出力7kWの佐伯式クインチド・スパーク・システムで、受信機は逓信省D型鉱石受信機に、その頃できて間もないソフト真空管検波器を連結したもので、当時としては優秀な装備であった。今日では想像もつかない程昼間の遠距離通信は困難な時代であった。この物凄い混信を止めない限り通信は不能であって、この重大な使命を果すことができないと判断し、すべての通信を中止せよという「オール・ストップ」の符号を連続連打し、超非常体制を独断でとった。その処置がよかったのか、太陽が没すると電波の伝播距離が延びて潮岬無線局の応答が聞えてきた。時に午後8時過ぎ、歴史的第一報「本日正午大地震大火災起り死傷幾万なるやも知れず、食糧水なし至急救援たのむ」打ち終って栃折喜三君と抱き合って感泣した。この第一報が大阪朝日新聞社の号外となって関西に伝わり救援の手を早めたことは勿論間接的に多くの人命を救うことができたのである』

停泊中のコレア丸には本来、通信士の川村は9月3日の出航日までいないはずだった。
1日、川村は横浜で兄と天ぷら屋で一杯やる予定だった。しかし近くにいくと二人とも不思議と急に飲む気が失せて別れてしまい、川村は無線機の修理の様子を見がてら11時半ごろ船に乗り込んでいた。
そして12時前、船は1m近い上下動と30度以上の横揺れを繰り返した。その後、海岸にあったオイルタンクが引火し、爆発。流れ出たオイルは海面を燃えながら広がり見る間に湾内の船が炎上しはじめた。
コレア丸には火玉が飛来し危険が迫ったので沖に避難するためにエンジンをかけるが岸壁が崩れ落ち、座礁状態になっており動かない。
最後の打電を銚子局に送り、海に飛び込む準備をした川村に陸の様子が目に入った。水も食料もない今となっては多くの人が餓死することになると感じた川村は通信を続けることを決意する。
その時14時30分、船が満潮時と重なり動き出した。そして沖に逃れることができたのである。
川村は打電をし続けるが、その彼を支えたのはモーターの過熱を防ぐため油をさし続けた栃折がいた。
彼らの働きがあって、日本各地から救援物資が届くことになった。
船橋の無線電信局
強力の電波を以て之を各地に打電した。恰も南支那沿岸に遊弋中の米国亜細亜艦隊は之に感応して、同艦隊司令官は獨断の處置を取り、二百五十萬圓分の救済物資を贖め之を舶載して横濱に急航し、米船スルガ1号は漢口に輸送すべき物貨を積んで金華山沖を航行したるに、同じく此の無線に感じて、直に救助船となり、芝浦に寄港した。其他の軍艦商船も此無線に感応したものが多かった。
磐城国際無線電信局長/米村嘉一郎氏

富岡受信所では地震の発生から東京に電話が通じなくなり、国内の電波をキャッチして、事態を知ろうとと局員の河原猛夫氏が局内にあったラジオを急遽改造して国内電波の受信器を作り情報を入手。
その時のコレア丸の打電は『横浜、地震に引き続き津波、火災の為全滅、飲料水、食料なしーー救援頼む、東京は不明なるも、多分同様ならん』
コレア丸の森川からの容易ならぬ雰囲気を察した米村局長は横浜にいる多くの外国人住居者を考慮し、外国に向けての打電を決意。
船舶無線局開設初期から外国航路商船の船舶局長を務めていたので英語に堪能であった。大阪中央無線局に送られた「横浜港内ニ停泊汽船ノ報ニ曰ク、横浜地震ノタメ全市建物全滅、同時ニ津波起コリ、家屋流失、各所ニ火災起コル通信ノ途ナシ」を受信すると、ただちに英文に翻訳しホノルル無線局宛打電する。「coflagration subsequent to severe earthquake atyokohama at noon today whole city practically ablaze with numberours casualties all trafic stopped」これが富岡受信所から有線で原町送信所に送られ、アメリカに届いた関東大震災の第一報となる。
富岡局はその後、全ての情報をアメリカに向けて昼夜を問わず7 日の間打電し続けた。

後に非常時の無線の活躍について「素晴らしい活躍をする手段だったが、日本では磐城一か所しか国際通信ができない設備不足、および非常時の通信体制をどのようにしておくべきかまったく準備ができていなかったことを悔いている」と述べている。

米村の活躍は世界中のマスコミを動かし、劇的な賞賛を受けた。①米国各新聞は米村局長の縦横無尽の活躍を詳細に報じ
②サンフランシスコ局を訪問した際の記念写真を米村局長だけを抜き出して大きく掲載
③ニューヨークタイムスは社説でもって米村局長の活躍を讃え
④アメリカ無線会社、新聞協会、フランス無線技術士協会、スペイン無線通信協会から賞金、メダル、感謝状が贈られた。
⑤ドイツでは小学校の道徳の教科書の題材になる
など、米村局長の活躍と共に富岡無線電信局の存在を大きく報じており、アジアに世界最新鋭の国際無線電信局ありと世界中の人々に印象付けたのである。
しかし外国で、これだけ大きな反響・賞賛があったにもかかわらず日本では全く無関心・無反応であった。
磐城国際無線電信局の局長は全期をこの米村米村嘉一郎が務めました。
彼らの働きがあって、アメリカをはじめ各国から救援物資が届くことになった。

中国北京郊外の無線電信局技術者元磐城無線電信局の局員

当時の日本はヨーロッパに対しての通信施設として、中国北京郊外の双橋(現、重慶市内)に無線電信局(9500Kw)を建設中だった。
この双橋無線局の建設は三井物産であり、その嘱託として磐城無線局の生みの親の佐伯三津留技師が携わっていた。
技術者として派遣されていた同じく元磐城無線電信局の高橋信一が暇つぶしに試験電波を発射しながら調整をしていたところ米村局長のホノルル局宛の打電を偶然に傍受し、この情報を中国側へ伝えるとともに、更にはヨーロッパへも転送している。
電鍵操作は個人の癖があり、馴れると誰が打電しているか直ぐに判るものといわれる。

清朝の元皇帝で、当時中華民国内で「大清皇帝」となっていた愛新覚羅溥儀も、地震の発生を聞くと深い悲しみに打ち沈んだ。溥儀は日本政府に対する義捐金を送ることを表明し、あわせて紫禁城内にある膨大な宝石などを送り、日本側で換金し義捐金として使うように日本の芳沢謙吉公使に伝えた。なおこれに対し日本政府は、換金せずに評価額(20万ドル相当)と同じ金額を皇室から拠出し、宝石などは皇室財産として保管することを申し出た。

アメリカ合衆国第30代大統領 /ジョン・カルビン・クーリッジ・ジュニア
現地時間の9月1日午前6時20分にロスに届いた情報は、市内のAP通信に電話で知らされ、アメリカではその日の夕刊からニュースになっていきます。
その夜、アメリカ合衆国第30代大統領 ジョン・カルビン・クーリッジ・ジュニアは、ただちに対日支援を実施。大統領令を発し、フィリッピン・マニラや清国に寄港中のアジア艦隊に救援物資を満載し日本(横浜)への急行を命じる。その時、日本ではまだ対策本部すらできていなかった。さらに大統領自らラジオを通じ全米に「困難に直面している日本を助けよう」と義捐金募集を呼掛ける。アメリカ赤十字社に500万ドルを目標に義捐金募金活動を指示。その結果約800万ドルを短時日に集め日本へ送るなど、支援国の中で最大規模の対日支援となった。これは今から100年前にアメリカが行った究極の「トモダチ作戦」である。

大統領が出した新聞記事
(1923年9月4日付、ワシントンポスト朝刊)大統領はアメリカ国民に対し、次のような呼びかけをしております
「未曾有の大災害を被った親愛なる日本国民に対し、東京、横浜、そしてその周辺各市町村の詳しい被害状況は未だ公式には連絡はないので不確かですが、大地震、火災、津波に襲われ、大災害に襲われた人々は生活手段を奪われ、欠乏、苦境の中で即刻の救援を待ち望んでいることは確かです。政府として即時の救援活動は行っておりますが、救援活動はこれからも長く続けなければなりません。国民の皆さん、友愛の精神で日本救援に協力をお願いしたいのです。救援活動がより効果的になりますよう在ワシントンの赤十字会長、若しくは赤十字社支社長を長とした使節団を日本へ派遣したいと考えております」
総務省の前身逓信省の資料
逓信省(ていしんしょう)は、日本の近代化の過程で重要な役割を果たしました。初期の頃は、主に郵便事業と電信事業を担当していましたが、後に電話やラジオ、テレビなどの通信技術の発展と共に、その業務範囲は拡大していきました。また、放送や電波利用の規制なども逓信省の管轄に含まれていました。
情報が世界に伝わった時系列
この図を作った人は素晴らしい人だと思います。
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開局から100年
福島県南相馬市に住んだことがある40代後半以上の人は、その存在を忘れる事はありません。
それは自らの目で白亜の巨塔を見た経験のある人たちです。
しかし、同じ市内でも40代後半以下の人はイメージすることしかできません。
ひとつの大きなものが無くなるということはそういう事なんです。
無線塔のあった原町市は市町村合併の際に南相馬市となりました。

東北は2011年3月11日に東日本大震災に見舞われました。
南相馬市は東京電力の福島第一原子力発電所から20キロ圏内に位置し、地震による被害だけでなく原子力事故による被害も受けることになります。市内の小高区と原町区の一部には避難指示が出されました。
2016年7月12日に小高区の避難指示準備区域も解除され南相馬市は人が戻れるようになりましたが、その間の時間は多くのものを失くしてしまいました。
(福島第一原発に遠い地域は順次解除されて行っていますが、どちらも解除からが復興の日々となります。また、今も避難指示が出されたままのところもあります。)
震災時にはアメリカによる「トモダチ作戦」が実施され、人々を支え励ましてくれました。

2017年3月11日無線塔の立っていた、まさにその場所で、5台のサーチライトを使って無線塔が再現されました。
無線塔の存在を、目で見て知っている世代である主催者のメッセージです「平成29年3月、原町無線塔解体から35年目を迎えた今、光のモニメントとして姿を現した無線塔の姿に、私たちは何を思い・どんなメッセージを託すのでしょう。このプロジェクトでは、無線塔の在りし日の姿をサーチライトを使って再現することによって、この地域に関わりのある人々にとって、気持ちを寄せ合える場を作ると共に、復興への強い決意と「鎮魂と再生」の願いをNew day(新しい日常)という言葉に込め事業を行うものです。」

詳細は”そうそう地域共生社会推進チーム 南相馬を無線通信の聖地にする会”のFBページで事前にお知らせします。


そして今---開局から101年
2023年、開局から101年は関東大震災100周年にあたります。

電信の時代に情報が世界を駆け巡り、その情報によって助かった人は少なくないはずです。
当時、この無線塔がその力を発揮できたのは、その時に己の能力を最大限に発揮した人たちがいたからです。
その功績を称え、現代に生きる我々が追体験ができる企画として南相馬市博物館の二上様を迎えて”原町無線塔物語り特別講演会”を実施します。
日時:2023/12/24 10時から12時
場所:原ノ町駅前 市民情報センター
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現存する無線塔のおもかげ

頂部
解体で残された原町無線塔頂部は38個の滑車が設置されたものです。
現在は博物館入口の西側に常時置かれ、かつては混信を避けるため富岡方向へ大きく開いていた部分を、訪れる人を待っているかのように博物館入口へ向けています。
主塔跡地
解体は完全な更地にするまで行われ、その場所には何も残りませんでした。
現在は高見公園の花時計の場所から西側の芝生の場所が塔の中心地でした。
もし解体途中の60mでも残っていれば、文化遺産になったかも知れない遺構なのが残念です。
3.11には光のオブジェとしてサーチライトで無線塔を再現しています。
大改修後 副塔5号基アンカー
電波塔を中心として周りには副柱が5本ありました。それに向かってアンテナ線が張られ傘型(一辺が空いている)に形作られました。
副柱1本にアンカーが〇個あり、改修時には〇個ありました。
半径500mの巨大な傘型なのですが、それを支える副柱を外側にワイヤーで引っ張るのにつかわれた巨大なアンカーが町中に3つ現存しています。


大改修後 副塔1号基アンカー
原っぱの町として原町と呼ばれました。


大改修後 副塔2号基アンカー
電波塔を中心として周りには副柱が5本ありました。それに向かってアンテナ線が張られ傘型(一辺が空いている)に形作られました。
副柱1本にアンカーが〇個あり、改修時には〇個ありました。
半径500mの巨大な傘型なのですが、それを支える副柱を外側にワイヤーで引っ張るのにつかわれた巨大なアンカーが町中に3つ現存しています。


副柱アンカー
電波塔を中心として周りには副柱が5本ありました。それに向かってアンテナ線が張られ傘型(一辺が空いている)に形作られました。
副柱1本にアンカーが〇個あり、改修時には〇個ありました。
半径500mの巨大な傘型なのですが、それを支える副柱を外側にワイヤーで引っ張るのにつかわれた巨大なアンカーが町中に3つ現存しています。


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あとがき

このサイトは原町無線塔を見たことがない、関西の人間が作りました。
2016年、私は初めて原町の地に立ちました。
初めて見た記憶は駅前どうりであっても多くがシャッターを閉め、静けさが広がっていたのを覚えています。
まず地域の事を知ろうと立ち寄ったのが南相馬市博物館でした。
そしてこの地が相馬野馬追という一千年以上の歴史のある行事と共に、その歴史の中のたった60年の間、原町無線塔という建物があったことを知ります。

それはまさに国を挙げての大工事、多くの人の夢と汗を経てここに立った。
しかし無線塔として電波を出したのはわずか10年間。
以来50年は立ったまま。その間に町の人にとってのシンボルになる。
そんな理解でした。

それから6年。原子力事故の復興は今だ道半ばですが、「こころの復興」という言葉が出てきました。
こころは目には見えません。その目に見えない何かを探したとき、私の頭にひらめいたのは私が見たことがない、しかし私と同じ世代はみんな当たり前のように知っている原町無線塔でした。
そしてその数奇な運命を調査して知ることは、私の知的好奇心を大いに刺激し、今では誇りに思えるようにもなりました。
折しも関東大震災から100年。3.11を経験したこの地から、その活躍を称え記憶に残してもらえるよう、このページを作りました。

最後にこのサイト作成にあたり、南相馬市博物館の二上様をはじめ多くの資料提供者の方のご指導ご協力がなければ完成はしませんでした。
ありがとうございました。
このサイトが小説家や脚本家、漫画家の方のお役に立ち、この街を題材にした作品が生まれてくれば、そんなに嬉しい事はありません。
そんなクリエイターの方が無線塔に携わった人々の物語を作ろうと思ったときにはご連絡ください。微力ながらご紹介など協力させていただきます。
参考文献
関東大震災後における逓信事業の復旧と善後策 田原啓祐氏
原町無線塔物語 二上英朗氏
ドキュメント”解体” 巨大無線塔が消える! 二上英朗氏

南相馬市出前講座
原町無線塔 世界をつないだ白亜の巨塔の物語 二上文彦氏

写真提供者
南相馬市博物館
関場建設株式会社


原町無線塔を題材にした書籍と現存物の紹介

原町無線塔物語
昭和52年9月 二上英朗氏著

ドキュメント”解体”
巨大無線塔が消える!

昭和56年11月11日 二上英朗氏著
原町史跡
南相馬市図書館
原町区上渋佐副柱アンカー
塔から561m。アンカーの基礎部分も見られます金属部分は切り取られています。
原町区日の出町副柱アンカー
塔から420m。ウィンチが据え付けられていた基礎部分がはっきりわかります。
原町区青葉町副柱アンカー
塔から669m。私有地の中に残るアンカー。金属部分を取り出した穴があります。
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