そうそう地域共生社会推進チーム MMS南相馬を無線通信の聖地にする会主催
特別講演「世界をつないだ白亜の塔 原町無線塔」
南相馬市博物館 二上文彦氏
2323/12/24クリスマス・イブに開催!
お申し込みは→ボタンを押してご予約ください。
リアルタイムのみZoom配信もあります。
大正初期、日本の電波技術史の創成期が始まります。しかし、当時の日本は全く豊かな国ではありませんでした。
活発になった欧米列強との外交戦略のなかで、不十分な対外通信施設しかなかった日本は、他国との情報戦に遅れをとるまいと、新たな通信施設を必要としていました。
1920年代は〇〇建築とラジオの時代の幕開けの時代。
原町無線塔は、そんな中で建てられた国際無線局の送信施設です。1921年(大正10年)10月竣工、翌年7月に開局しました。
太平洋側の相双地域はアメリカに近く、立地の候補地は数多くありましたが南相馬市原町といわき市四ツ倉が最終候補地になり、水の豊富さと河岸段丘で出来た固くて広い土地の原町に決定しました。
当時は日本軍が管轄する舟橋無線塔がありましたが、政府が自由に使えるものとして熱望された無線施設でした。
そのため、国家が総力をあげて取り組んだ事業の中で生まれたアンテナの主塔で、依佐美送信所ができるまで東洋一の高さを誇りました。
100年前の開局式典には逓信大臣ら政府高官、軍幹部、福島県知事ら県幹部、新聞記者らをあわせて400 名ほどの来賓が原町を訪れ、当時世界有数で最先端の国際無線局の開局を祝いました。
祝宴は欧米流のパーティー形式で、初めて見るチョコレートやバナナに戸惑った地元住民もいたそうです。
街中では記念行事が行われました。原ノ町駅前には記念祝賀の大アーチ、家々には国旗や花灯篭などが飾られ、野馬追の騎馬武者行列や、打ち上げ花火、飛行機によるアトラクション飛行などが行われ、地元の人々も、無線塔の圧倒的存在感と、無線通信という新時代の到来を熱烈に歓迎しました。
当初は鉄塔の予定だったが、技術者への命令は”とにかく安くあげろ”。しかし第一次世界大戦の影響で鉄の値段が高騰したため、鉄筋コンクリート製に変更。
出現したばかりの新技術であるコンクリート製の塔になった。アンテナを張る副柱は鉄製ではなく木製でコンクリート塔と16本の木製副柱からなるユニークな施設になった。
工法は高さ約1.37メートル(4フィート6インチ)ずつ井戸状にコンクリートを打設するというもので、1920年(大正9年)9月26日までの間、これを147回繰り返し作られました。
材料は近くを流れる新田川から砂と石を採取しました。
尚、建設と改修の工事では数人の犠牲者も出しています。
完成は日本中が知ることになり、国定教科書にも載るほどで、「原町から来た」と言えば「あの無線塔があるところか?」とどこに行っても言われたそうです。
富岡受信所では地震の発生から東京に電話が通じなくなり、国内の電波をキャッチして、事態を知ろうとと局員の河原猛夫氏が局内にあったラジオを急遽改造して国内電波の受信器を作り情報を入手。
その時のコレア丸の打電は『横浜、地震に引き続き津波、火災の為全滅、飲料水、食料なしーー救援頼む、東京は不明なるも、多分同様ならん』
コレア丸の森川からの容易ならぬ雰囲気を察した米村局長は横浜にいる多くの外国人住居者を考慮し、外国に向けての打電を決意。
船舶無線局開設初期から外国航路商船の船舶局長を務めていたので英語に堪能であった。大阪中央無線局に送られた「横浜港内ニ停泊汽船ノ報ニ曰ク、横浜地震ノタメ全市建物全滅、同時ニ津波起コリ、家屋流失、各所ニ火災起コル通信ノ途ナシ」を受信すると、ただちに英文に翻訳しホノルル無線局宛打電する。「coflagration subsequent to severe earthquake atyokohama at noon today whole city practically ablaze with numberours casualties all trafic stopped」これが富岡受信所から有線で原町送信所に送られ、アメリカに届いた関東大震災の第一報となる。
富岡局はその後、全ての情報をアメリカに向けて昼夜を問わず7 日の間打電し続けた。
後に非常時の無線の活躍について「素晴らしい活躍をする手段だったが、日本では磐城一か所しか国際通信ができない設備不足、および非常時の通信体制をどのようにしておくべきかまったく準備ができていなかったことを悔いている」と述べている。
米村の活躍は世界中のマスコミを動かし、劇的な賞賛を受けた。①米国各新聞は米村局長の縦横無尽の活躍を詳細に報じ
②サンフランシスコ局を訪問した際の記念写真を米村局長だけを抜き出して大きく掲載
③ニューヨークタイムスは社説でもって米村局長の活躍を讃え
④アメリカ無線会社、新聞協会、フランス無線技術士協会、スペイン無線通信協会から賞金、メダル、感謝状が贈られた。
⑤ドイツでは小学校の道徳の教科書の題材になる
など、米村局長の活躍と共に富岡無線電信局の存在を大きく報じており、アジアに世界最新鋭の国際無線電信局ありと世界中の人々に印象付けたのである。
しかし外国で、これだけ大きな反響・賞賛があったにもかかわらず日本では全く無関心・無反応であった。
磐城国際無線電信局の局長は全期をこの米村米村嘉一郎が務めました。
彼らの働きがあって、アメリカをはじめ各国から救援物資が届くことになった。
当時の日本はヨーロッパに対しての通信施設として、中国北京郊外の双橋(現、重慶市内)に無線電信局(9500Kw)を建設中だった。
この双橋無線局の建設は三井物産であり、その嘱託として磐城無線局の生みの親の佐伯三津留技師が携わっていた。
技術者として派遣されていた同じく元磐城無線電信局の高橋信一が暇つぶしに試験電波を発射しながら調整をしていたところ米村局長のホノルル局宛の打電を偶然に傍受し、この情報を中国側へ伝えるとともに、更にはヨーロッパへも転送している。
電鍵操作は個人の癖があり、馴れると誰が打電しているか直ぐに判るものといわれる。
清朝の元皇帝で、当時中華民国内で「大清皇帝」となっていた愛新覚羅溥儀も、地震の発生を聞くと深い悲しみに打ち沈んだ。溥儀は日本政府に対する義捐金を送ることを表明し、あわせて紫禁城内にある膨大な宝石などを送り、日本側で換金し義捐金として使うように日本の芳沢謙吉公使に伝えた。なおこれに対し日本政府は、換金せずに評価額(20万ドル相当)と同じ金額を皇室から拠出し、宝石などは皇室財産として保管することを申し出た。
ドキュメント”解体”
巨大無線塔が消える!